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沖縄自治研究会

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政党政治の始動と沖縄民主同盟の設立 中

(休 憩)
○司会(江上能義)  ……上原さんを私が知るきっかけになったのは、ここにわざわざ東京から来ていただいた眞板さんです。眞板さんは、琉球大学の大学院で沖縄の政治関係で修士論文を書いて東京に戻られたんですけれども、私も去年の4月から早稲田大学に移って眞板さんと会っているうちに、実は上原さんという方がおられますよということを聞いてびっくりして、それで私も上原さんと1回東京でお会いしたんです。

 その眞板さんは上原さんと東京で何回か会って、上原さんのオーラルヒストリーを収録する作業を現在も進行中であります。

 ちょっときょうは、彼が昨晩、酒を飲み過ぎて声を壊してしまったというタイミングのよさですけれども、あえて絞り出して今の上原さんの話について、あるいは今まで眞板さん自身のオーラルの記録の中からでもいいんですけれども、ひと言感想等を聞かせていただけたらと思います。よろしくお願いします。


○コメント(眞板) 眞板と申します。水曜日に沖縄に入ったんですが、木曜日の日に沖縄の仲間と朝方ぐらいまで酒飲みまして、何か突然声が出なくなりまして、普段からおしゃべりなものですから、きっとこれはしゃべりすぎるなという神様から言われたのかなと思っております。

 それで、上原さんとは今江上先生からご紹介ありましたとおり、政策研究大学院大学のほうで沖縄プロジェクトというのがございまして、そちらでオーラルヒストリーということで上原信夫先生のお話を伺っております。

 現在8回目まで来て、一応これでやめようかと思っているんですが、都合32時間ほどお話を伺っております。その中で、今回の民主同盟というのが沖縄プロジェクトでも目玉のところになっておりまして、今回の上原先生のお話をこれから伺うにあたって、ちょっとヒントとなるというか一つの視点として持っていただきたいものをお話させていただきたいと思います。

 やはり県内の政党とか政治勢力を分析するにあたって私自身、だれが代表なのか、だれが中心的に活動しているのかといった、人の問題というのが非常に重要であろうというふうに考えております。前半の上原先生のお話を伺ってても、人の名前が非常に多く出てきているのもその特徴であり、すごさであろうというふうに考えております。

 さしあたって民主同盟に着目する意義としては、皆さんもご承知だとは思いますが、沖縄本島においては戦後初めてできた政党であるということ。恐らく沖縄の近現代史の中で一番最初にできたエポック的な政党であろうと思います。宮古、八重山の場合はあまり戦災もなかったので、年代としては先にできている部分もありますが、やはり沖縄の灰燼に帰した混乱状況の中でこういった政治勢力、政党というものができるというのは、そこに着目するのは大変意義があるだろうと思います。

 さらによく見ますと、人という視点で見ますと、沖縄の保守と沖縄革新の源流にあたる政党でもあります。ちなみに、そのころ琉球政府ができて比嘉秀平の与党として琉球民主党というのができますが、これの前身が共和党、その前が民主同盟です。また、琉球政府になってからは野党的になりますが、社大党というのがやはり民主同盟が源流になります。というのは、社大党の一番最初の代表が平良辰雄という人であるということからも、そう言ってもいいんじゃないかと思っております。  

 さらに、民主同盟の特徴としては、最初は戦後の混乱期ですので、とにかくオール沖縄を形成しようということで、そのために党綱領がないというのが特徴の一つになっております。なぜ党綱領がないのかというと、当初メンバーから見ますと、仲宗根源和とか山城善光というのは戦前から共産主義あるいは社会主義的な運動をしていた人たちで、どちらかというとこの人たちは階級政党を目指した節があります。

 ところが、戦後の混乱期で階級がそもそも成り立ってないんじゃないのかと。仕事場といえば軍作業しかないわけで、その対価は何かといったら配給物資であるとか「戦果」と言われていた物資しかないわけです。流通しているのも基本的には物々交換で貨幣経済も満足にないというような中で、資本家も労働者もないだろうというようなところからなかなかそういったことを明文化することはできなかったというふうに、上原先生からはお話を伺っております。

 ところが、これは解体に向けてという部分なんですが、社会が安定するに従って軍作業で商いが成り立ってくるような人たちが出てきます。具体的には国場組であるというようなところですが、そうするとその利害の不一致で総論賛成各論反対ということで、除々に民主同盟の運動に対して共鳴できないとか、一線を画していくような人が出てきてます。

 それと同時に、米軍政府も民主同盟が先鋭化するに従って逆に人民党とか社会党、それから一部民主同盟の穏健派を抱き込んでいくような方向に進んでいきます。この一つが50年の5月に、群島政府の公選を答申、諮問するんですが、それによって当面の民主同盟を含めた既存政党の攻撃目標というか要求目標がなくなっちゃうんですね。それによって、総体的に統括度が停滞してしまうと。

 こと民主同盟に限っていえば、実は段階論を踏んでいまして、最初は上原先生のお話の中でも出てきますが、とにかくまず啓蒙運動をやろうと。人心荒廃しているので、まず、かっぱらいみたいなことはやめようよとか、女性は体を売ってまでお金を得ようなんてことはやめようよとか、そういうようなところから健やかな生活、公衆的にも優れた生活を求めていこうよと。それには配給を増やしてくれとか、それとか働く場、自分たちで自活できる場をつくってくれと、その道具をくれというような要求が当初でした。

 それと、自由の獲得ということで一番最初にあったのが、先ほども出ました知念の沖縄建設懇談会を踏まえて結社の自由、それから次にまだお話で出てきていませんが、表現・言論の自由の獲得ということで、これは山城善光が「沖縄人連盟」、東京でやっていたときに発行していました「自由沖縄」という同盟の機関誌ですが、これの第1号を出します。これが48年の5月です。

 ところが、これが出版法違反というようなことですぐひっかかってしまいまして、6月中旬に恐らく県内戦後初めての高等軍事裁判が行われます。これによって民主同盟は怪しげな危ない政党だというようなことで、これも一つのきっかけになって徐々に民心が離れていったのではないかと推測しています。

 そういうような流れの中で、では上原先生は何をなさっていたかというと、盛んに上原先生のお話を伺っていくと、仲宗根源和、山城善光、桑江朝幸とご自身との年齢差についてなんですね。当時、上原先生はまだ20代のせいぜいいっても25ぐらいなんですが、あと桑江朝幸さんが八つ上で、山城善光さんが一回りぐらい上、源和さんが当時51、52だったと思います。そういう中で、自ずと役割が変わっていったということをおっしゃっております。

 上原先生は山城善光さんに非常に心酔していまして、その中で主に青年部長と申してもどちらかといえば山城善光さんのボディーガードであり、使い走りであり、山城善光がやることを横でつぶさに見ていたというお立場の方になります。ですから、結党大会のときも上原先生は主体的に演説して何かをした、あるいはオルグをしたというよりは、会場整理であったりとか、動員するにあたっての車の手配であるとかといういわゆる雑用みたいなことをなさっていたようです。

 それと同時に、民主同盟の中核というのはやはり今申し上げたように、山城、桑江、上原の3人、三羽ガラスとも言っていたそうですが、そういう人たちが中心になって仲宗根源和を御輿に担ぐような形でやっていたと。民主同盟も最初からオール沖縄を形成するだけではなくて、ある程度形成して、第一段階で人材が育ってきたら、次へのステップということを当初から考えたようです。

 そういうようなことを踏まえて後半、上原先生のお話をお聞きいただければ幸いでございます。以上です。


○司会(江上能義)  眞板さん、どうもありがとうございました。非常に要領のいい解説を加えていただきまして、今後の上原さんの話に役立つと思います。
 もう1人、実は今回の照屋先生の話でも、上原さんの話でも出てきました大宜味朝徳さんの研究を、やはり早稲田の大学院で修士論文として大宜味朝徳研究をまとめた西平さんが今この会場に来ています。というよりも、西平さんに上原さんと会わせたかったので、
私が強引に呼んだんですけれども。 地道に乏しい資料を集める作業は大変だったと思うんですが、西平さんは大宜味朝徳について修士論文をまとめました。そしてその西平さんの論文を上原さんも読んでおられるんですね。そういうのもあって、今大宜味朝徳の話が照屋さんの話からも、上原さんの話からも出ていたんですけれども、大宜味朝徳について論文を書かれた立場からコメントをお願いしたいと思います。唐突ですけれども、西平さん、よろしくお願いします。


○コメント(西平) 皆さん、西平と申します。琉大のほうの修士論文ということで、大宜味朝徳の思想ということで、まだ思想になってないということで先生方からいろいろとご指摘もいただいたんですけれども、一応、そういうふうな関係で、その際にお世話になった江上先生のほうからご連絡いただきまして、それと上原先生ともいろいろと連絡をさせていただく機会もありまして、きょうは参加させていただきました。

 私のほうは、本職は県庁職員で県税事務所というところで県庁の取り立て屋をしております。その関係で、口実ですけれども、なかなか継続して研究する時間もなかったりするんですけれども。

 私のほうが大宜味朝徳に興味を持ったというか、大宜味朝徳という人物がいて、独立論を唱えたんだけれども、なかなか支持されなかったというふうなことはずっと思っていたんですけれども。

 ずっと沖縄の自治についていろいろ興味はあったんですけれども、その際
にも長い間大宜味朝徳という方は反米でということで、なかなか取り組みはしてこなかったんですけれども、またそれから沖縄の自治の話は別にして独立論になると、先ほども話がありましたように、今でもそうだと思うんですけれども、これまでも沖縄に独立してどうなるかというふうな問題と、もう一つは、日本が解放されて沖縄も解放されるんじゃないかというふうなことを、私もずっと言われてもきたし、そうも思ってきたわけですね。

 そういうふうなことで、大宜味朝徳の研究しようと思ったのは、1995年にたまたまカナダに行く機会があって、そこでカナダの独立を問う投票みたいなものがちょうどいるときにありまして、そういう機会の中で沖縄のほうではどうだったかなというふうなことを考えるきっかけというか、それですべてそういう大宜味さんの思想に賛同するわけではないけれども、沖縄がよく自立とか何か言うんだけれども、そういうふうなものを考えていく上でとっても必要ではないかというふうなことで、大宜味さんの研究をしているというところです。

 きょう非常に楽しみにしてきましたのは、上原さんのほうが当時大宜味朝徳さんとか、それから民主同盟の沖縄の初期のいろいろな政治にかかわってこられたということで、そういうふうな直接の証言というか体験というか、それを生々しく聞く機会があって大変楽しみにしておりましたし、また実際、大変参考になっております。

 私のほうの論文の話は、先ほど照屋先生のほうからもいろいろご紹介もいただきましたので、大宜味朝徳さんの独立論そのものについては、私のほうから特にコメントすることはございませんけれども、また後半のほうで上原先生のほうからも独立論についてもう少し詳しいお話でも伺えたらと思って期待しております。以上です。


○司会(江上能義)  突然の指名でしたけれども、どうもありがとうございました。また上原さんに論文を送っていただいたりして、本当お手数かけてありがとうございました。
 上原さん、西平さんの大宜味朝徳さんについての論文を読まれて、おもしろかったですか、それともなつかしかったのが先ですか。


○上原信夫  そうですね。突然、大宜味さんが目の前で、「信夫、おまえまだ生きているのか」なんて、声かけられたような思いでしたね。

 とにかくあの人自身の弱さというのを私は知っているわけですね。彼自身もよく知っている。彼自身がよく知っていたがゆえにああいう歩み方をした。だから、最初からひとりぼっちでしかおれなかったと。

 だのに、私には話しかけて、信夫ちょっと来いやなんて。あのな、おまえが言っていたことについて俺夕べよく考えたんだ。私と話したことを、彼は翌日そういう形で私に話しかけたことが何回かありましたね。それを山城善光たちに言ったら、山城善光さんは、「信夫君、実はな、大宜味さんは君と一緒にいたいんだよ。しかし、君一緒になれないからな」と、もちろんそうですよと言った。そういうような仲で、ひとりぽっちで。

 きょうの会合には3人ぐらい連れてきますよといって、そしたら2名ぐらい連れてきて、次は1人また来る。こういう形で、あの人の生い立ちがひょっとしたら人を信用できないというようにしたかもしれないけれども、私はこれにちょっと書いてありますが、ウチナンチュ的ないい人、人から弱い者と見られたくない、一旦、見られたならば俺は何とか跳ね返してやるんだというような、押さえつけられたら押さえつけられたままではあの人は我慢できないという抵抗精神といいますか、これは極めて旺盛だったと思うんですね。

 だから、それがある場合は人との個人的なつき合いの中でもってもろに出てくるようなことはなかったにしても、具体的な言葉では言わないけれども次の行動でもってムッとするとか、あるいは顔も出さないとかというような形でやるから、彼が一番多く仲間を集めたって、泡瀬一帯ですか、20~30名ぐらい集めて、そして最後にどこそこの支部、どこの支部のということを一応紙の上では書かれたと思うんですよ。だから、それは公文書館のほうに残っているかもしれないけれども、あの人はまめに自分の足でそういう報告を出したと思うんです。我々は、故意にそれを拒否してやらなかったけれども、大宜味さんはやはりそういう上からの支持に対しては、約束に対しては非常に素直にやったんじゃないかなと思いますね。

 それともう一つ。彼は琉球国民党をつくったんですね。そのいきさつというのはよく知らないんですけれども、少なくとも1950年の正月明け早々のつき合いをしていて、本部町での最後の三党講演会で会ったときも夕方まで一緒でしたが、それが大宜味さんとの離別となったので、あの人のそれ以降の変化というものに対しては、私は全く想像もしてなかったのでわからないですね。


○照屋寛之  質問しておかないと、質問されたら困りますので。
 その大宜味朝徳の、私も非常に変わったパーソナリティーだろうなと本を読んでつくづく思うんですけれども、やっぱり人が集まらなかったということは、本を読んだのと大体一致するんですね。
 だから、例えば私が先ほど国民党内閣の構想というのがたくさん挙げております。平良幸市とか崎間敏勝とか、稲嶺一郎と。この信憑性はご感想としてはどんなものですか。


○上原信夫  恐らくそういう人たちとそんな深いつき合いはしてないと思うんです。


○照屋寛之  勝手に書いたんですか。


○上原信夫  恐らく先ほど申し上げたように、30何名かの党員を並べて、全島に幾つかの支部長の名前も書いたのを私見たことはあるんだけれども、そういうのも本人たちの了承を得るとかそういうものではなしに、ご自分でお考えになって決めて、そして問題がなければそのまま放っておくと。そういう形だったんじゃないかなと。
 だから、公文書館に手書きしたそういうのがあるかなと。そういう点では、まじめだから出しているかもしれない。


○仲地博  名前の中に金城ヒデノブ先生が挙がっている?


○照屋寛之  挙がってないですかね。


○仲地博  金城先生が、勝手に名前を挙げてみたいな話をしていたから。


○司会(江上能義)  では、別のいろいろなところで挙げている。プランはいろいろあって、その中で適当に本人の承諾なしにですか?


○照屋寛之   だからあれですね。ちょうど今上原さんがおっしゃるようなことが幾つかの本の中に出てくるんですよ。自分は名前を言ったつもりはないけれども、要するに会っただけで名前が挙がってしまうという。1回会って会話しただけで名前が挙がってしまう。


○司会(江上能義)  それでまた怒られ、抗議されるから、ますます人が離れていくというような、そういうことがあったのでしょうね。
 本人はそんな悪気はなくて、まあいいんじゃないかと思って。そしたら、名前を出したら文句言われるとか。


○上原信夫  いわゆる今の言葉で言えば、夢多き青年だったのかもしれませんね。その夢につられてさまよい歩いたのかもしれませんね。


○司会(江上能義氏)  夢追い人だったんですね。でも、周りの人はちょっとついていけなったんでしょうね。


○上原信夫  話は上手ですからね。


○司会(江上能義)  話は上手だったんですか。


○上原信夫  話は上手ですから、彼がしゃべっている間はみんな黙って聞いていた。何か言い返しているとまた話が広がるから黙っておろうなんていうような、そういう具合のあれだったでしょうね。
 だから、彼が民主同盟の中央委員にも指名されてなったにもかかわらず、いつの間にかこんな沖縄社会党の党首だということになる。こういうだれに相談したかということは全くないようなことですね。極めて独立心の強いお方だったと思います。


○照屋寛之  沖縄社会党をつくったり、社会党をつくって琉球国民党といろいろな政党を渡り歩いているわけですよね。しかし、やはり政党の中でもどうしても浮いてしまう存在だったんですか。


○上原信夫  何しろ自分でしっかりした自分なりの思想を持っていない。恐らくあの方は自分のちょっとしたこうすべきであるということは、夜寝ていて、あるいはきょう考えているかもしれません。それはそのまま自分の頭の中にちゃんと刻み込んでいると思って、それで終わりということもあったと思うんですね。それを育てて組織していく、育て組織化するのには仲間が必要なんです。その人は、仲間とのつながりというのを持てない。仲間をつかみ切れない。そうすると、やはり空想から空想へと走らざるを得ないと。

 アメリカの信託統治に対して彼は大変な興味と熱意を持っていたけれども、じゃ、どのようにするか、その場合沖縄の受け皿は、大宜味の受け皿はということになると何もなかったですからね。それを話さないんですから。
 私たちは組織があってはじめて活動があるんだと、発展もあるんだと思って、そういう考え方が基本的に違っておりましたですね。


○司会(江上能義)  ここでフロアーからも質問したい方がたくさんおられると思いますので、まず初めに島袋純さんからどうぞ。そのあと皆さん方もぜひ質問をお願いします。


○質問者(島袋純)  質問が1点だけあるんですけれども。
 民主同盟の広がりが持てなくなった理由というものが、その「自由新報」でしたっけ。民主同盟の機関誌の問題で、山城善光と桑江朝幸が逮捕されて、そのときに仲宗根源和が裁判に出なかったという事件があったんですが。それが一つの原因でしょうか。

 先ほど、にらまれて裁判にかけられたから危ない政党だというふうに見なされたことによって支持が落ちていったという話をされていたんですが、どうも沖縄の場合その後の人民党の裁判とかから見れば、そうではないのかもしれないなということが1あったんですよ。 

 というのは、正々堂々とその委員長である仲宗根源和さんが裁判に出て、明確に対アメリカとの立場をはっきりと打ち出して、それでさらに裁判にかけられるとかあるいは入監させられるとか、逮捕されるとかいう事態になったら、かえって逆に民主同盟は人気出て求心力は高まったんじゃないかなという、逆の方向を考える可能性もあったんじゃないかなということなんですよね。 

 50年代と恐らく40年代、雰囲気違うのかもしれない。もしかしたら40年代のほうがみんな従順だったのか、50年代のほうは島ぐるみ闘争でちょっと元気出てきて、人民党が裁判になったときに沖縄の人々は支持したのかもしれない。こっちちょっとわからないんですけれども、これがどうなのか教えて頂きたいということです。 

 それで、私はもし民主同盟の求心力あるいは沖縄の民主同盟に対する支持が落ちていったのと同時に、逆にその復帰論のほうが1949年あたりから入れかわるように出てきてしまったのかなというのを想定しているんですが、そちらについてはどうですか。民主同盟の支持が減っていった理由と、それと事件ですね。その関係。それから民主同盟の支持が減っていったことと、その復帰論が台頭する入れかわりの関係ですね。その点について、ご説明お願いできますか。


○上原信夫  この問題について、私たちが当時現場で考えていたのはどういうことだったかというと、山城善光と桑江朝幸が捕まった。そして、アメリカの監獄に入れられてしまった。私は同じように捕まるはずだったのに、CICは私のいる場所がわからなかった。

 それで、さあ裁判ということになるまでは、私はそのままうまく逃げていたらいいんだという考えだったのが、大城ツルさん(民主同盟中央委員候補でもあった人)という通訳がおりまして、このおばさんは女傑したすごいお方でした。

 軍政府のほうからの指示を伝えるのに民主同盟中央委員の大城善英さんという方が石川に住んでおられて、民主同盟の連絡拠点になっていた。この人は先ほども申し上げたように南洋からの引き揚げ者なんですが。その人のところへ、上原信夫はどこにいるんだということで突然、大城ツル女史が軍制府の命令伝者として彼を訪ねていったので、私が手配中だから、善英さんも驚いたのは事実ですね。

 それで、とにかく民主同盟が至急臨時中央委員会を開かなければいけないということで、仲宗根に話を持っていって、そして、その内容はというと、軍政府のほうは民主同盟を代表する人物がこの軍事裁判に立ち会わなければいけないと。これ、アメリカの裁判では陪審委員みたいな、これを要求してきたわけなんですよ。

 それで、大城善英さんは民主同盟の事務局長もやった人(その後今帰仁村の村長になられたそうだ)。この人が仲宗根源和に相談したら、いや、これは「大変なことになるぞ」ということを仲宗根さんはおっしゃったということで、私にどうするんだということで、一応、私、じゃ、委員長は仲宗根源和さんだ。委員長の仲宗根源和さんのご意向を直接私が聞いてから、私なりにどうするかまた相談しましょうということで、首里の寒川に会いに行った。

 そしたら、最初こう言った。上原君、おまえそういうところへ出たら駄目だぞと。出ると、おまえ捕まっちゃったら終わりだぞということなんです。そして仲宗根曰く、俺も行ったらあとはちょっとアメリカの今の状況からすると、情勢がちょっと怪しいから、彼も今度はぶっこまれるだろうという恐怖感がある。

 それで私が、いいじゃないの、民主同盟の2人の中央委員がぶっこまれていて、あんたもぶっこまれたらいいじゃない、私も一緒についていきますよと言ったんだ。彼は、「うん」と言ってくれない。何回か押問答をやったけれども、結局、駄目。

 それで、大城ツル女史を私は訪ねていって、こうこうなんだが仲宗根源和は出ないということになって、何名か集まって話し合った結果、上原、どうせ2人が銃殺されるんだったら俺も一緒に銃殺されるから俺行くよと言ったら、みんな賛成してくれたわけなんですよ。

 そういうことで、じゃ私行きますと言ったら、大城ツル女史が駄目だと。米軍は君を一生懸命さがして、1週間も2週間もさがして見つからなかった。おまえがのこのこ出て行ったら、エサをくわえてきた何かみたいに待っておりましたと終わりだよと。そうすると、山城・桑江両人にとっても不利だ。裁判がやり直しになってくるからこれは駄目だということになったんだけれども、一体いつまで2人を監獄に入れておくつもりなんだと言ったら、これはなるべく早く解決したほうが民主同盟のためにも、沖縄の民主運動のためにもいいんだということで、じゃいいです、腹決めました。私でよければ出ますということになった。

 そのとき彼女いわく、じゃ、君捕まってもいいんだなと。それはもちろんです、2人は捕まっているんだ。私は捕まれても構わないじゃないですかということで、それで私は軍事裁判に陪審員か何か知らないけれども参加した。

 その前の晩に、その大城ツルさんは知念におられましたから、その人は万一のことを思って、とにかく私が裁判に出るまでうまく捕まらなければ、裁判の場でもって裁判官も……。

 大城ツルさんという通訳は、米軍の通訳などそっちのけでダダダーッとやりましたから。大城女史は後日、沖縄婦人会長か何かをやられたそうですね。すごい人でした。その方が、よろしいと。私の家に来いと一晩泊めて私が連れて行くと言って連れていってやった。 

 それで私は、結局、裁判でひと言も発言してはいけない。私が手を挙げたら立て、手をおろしたら座れというような訓練をされまして、もう私はそのとおりにやったんだけど、最後になって、アメリカ軍制府の民主主義とは何だと、あそこで私はやったんだ。言わなければよかったのにね。

 私、マタイ伝の山上の垂訓などを引っ張り出して、おまえたちアメリカはキリスト教の国だというのに神の教えに叛くのかって。これを何分か知らないけどやった。そうしたら、大城先生が真っ青になって飛んできて、座れ座れてして。そして、この若者は何か言い間違えました。私が言ったことを通訳しないで。それで、この人は若いから何か興奮して大きな声で言ったということを弁解してごまかしたらしいんだ。大城先生の抜群の弁説により、裁判長は鋭い目で私を睨みつけて一段落した思い出があります。

 そのときの社会世論から見ますというと、大衆は大変心配しておりました。山城善光と桑江朝幸が捕まえられたということはばーっと広まっていますからね。もう既に自由沖縄を発行して問題は出そろっているもんだから、いつやられるかわからないということははっきりしていたんだけれども。

 そのときに、人民大衆は別に恐れていない。我々は第2号、第3号を出せというような。しかし、ガリ版の原紙ですね。これがないんだよ。油紙の原紙、日本から桑江さんが持って帰ったのは全部使ってもうない。そして、しかも図々しいのは軍政府に行って、「原紙がないんだ。原紙の余分のがあったら分けてください」なんてもらいに行ってるんだよ。これ桑江朝幸と2人で行ったんだが。アメリカも腹が立ったんだろうね。しかも印刷用紙までもらっていかれた。

 そのときのあれからしますと、確かに山城が、桑江が監獄にぶっこまれたと。それで銃殺になるそうだという噂になった。銃殺刑にされるだろうと。上原も行くんだそうだ。そうすると3人銃殺だということになって。そのつもりでいたんだけれどもね。

 もしも、仮に銃殺にされるというと沖縄中が、それで恐れる人もいるけれども、何をアメリカということで、また抵抗も大きくなったかもしれない可能性があるわけ。

 そこで、じゃ、その後、実際に私たちが裁判を終わって、実刑でなくて罰金刑になったんですよ。一人50ドルか何かちょっと忘れた。これ民主同盟の借金にもなっていますけどね。それでその問題について、地元でコザ市では桑江朝幸、ヤンバルでは山城善光のためにみんなが有志で動いてくれて、署名運動をしたりしているんですよ。

 だから、大衆が離れたというよりもまだ離れるような段階ではなかった。一体アメリカのやろうどもは、何をするんだろうかというのが多くの人民大衆の気持ちだったと思いますね。

 それで問題は、私と仲宗根さんの仲というのはそれでもって決定的になってしまったんですよ。そのとき私が彼に言ったのが、かつて日本共産党を指導する立場のあった人が、こんな小さな問題の戦いの指導もできないのか!と私に散々やられちゃっている、黙って頭下げて聞いていましたからね。

 しかし、これは党の発展というのは結局組織の統一と団結を如何に強化するかというのが最重要項目として取り上げられた。2人が監獄から出てきたんだから、この際、我々はもう1度立ち直って機関誌を出すかというような準備に早速取りかかってきておりますからね。

 ただし、仲宗根さんと私のことあるごとに今度は議論になる。これは私がダーンと机をたたいたりしてやるようなことになってきて、それで山城善光いわく、信夫も大変な苦労してきたりと、大人になったなんて私を冷やかしたこともありましたけどね。そういう中で、仲宗根との仲はイデオロギーの面で、彼の組織的事務処理の問題で組織活動の処理の仕方の問題で、2人は対立はしているけれども、党の統一維持を、団結を全く破壊するような状況にはなってなかった。

 だから、その事件が起きた後、人民党、民主同盟と社会党と、3党連絡会議を持ったり、それから合同演説会を何回も持っているんですよ。それから考えますと、沖縄人はそのときおじけちゃって民主同盟から離れたというよりも、むしろ民主同盟から離れたというのは、私と仲宗根源和との対立の次の段階。すなわち平良辰雄とそれから松岡さんのこの問題の前段階でもって、仲宗根源和は知事に立候補すべきであるといって、私が尻をたたいたんですよ。

 そうすれば、かつての裁判問題で仲宗根と2人の対立は解消すると。私は逆に一歩も二歩も退いて、あんた党首なんだ、委員長なんだと、何で立候補しないんだということで、彼の松岡さんを推薦するということに対して、私は徹底的に議論してますます大きな対立に持ち込んでいってしまったんだけれども。

 そのときまでは、恐らく私の周辺にいたウチナンチュというのは、まだ仲宗根に希望を持っている。そして上原たちが頑張って仲宗根を知事に引っ張り出すならば、勝とうが負けようが、勝ち負けは別として民主同盟の顔が立つじゃないかということで支持していた。励ましてくれた。

 だが、いよいよ最後に彼は、私は絶対立たないということになって、2人の団結はこれで終わりだということになる。それからですよ。実際に民主同盟の支持が落ちていったのは。何だ、仲宗根は民主同盟をまとめる力がないじゃないかと。

 そして、自分が立候補するような立場にありながら立候補もしないでもって、民政府の松岡ヨウセキを担ぎ出すなんていうのはけしからんと。これが、そこの弱みにつけ込んで平良たちの闘争があり、そして民主同盟の分裂につながっていく。そういうことです。しかし、その頃になると私は沖縄を離れて不在だったので、詳細については知らないです。


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